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人は自然から離れては生きられない

 

 

先日子どもと

『天空の城ラピュタ』を見ました。

 

 

ラピュタの名シーンと言えば

色々挙げられますが

(とりあえずパズーの

身体能力は凄すぎる)

 

このBocco.の活動をしたいと

思うようになってから

 

今までさほど

気にしていなかった部分に

ぐっと心惹かれました。

 

最終シーンのシータの言葉。

 

あれが、まるで現代の事のように思えたのです。

 

シータ「今は、ラピュタが

なぜ滅びたのかあたしよく分かる。

 

ゴンドアの谷の歌にあるもの。

 

”土に根をおろし、

風とともに生きよう。

 

種とともに冬を越え、

鳥とともに春を歌おう”。

 

どんなに恐ろしい武器を持っても、

たくさんの

可哀想なロボットを操っても、

 

土から離れては

生きられないのよ」

 

 

 

私が最近強く感じている事。

 

人間は、自然から

離れてはいけなかったということ。

 

 

シータの言葉に合わせるならば

 

 

 

どんなに便利な道具を作っても

ネットの上でたくさんの人と

つながれたとしても

自然から離れては生きられない。

 

 

車、電気、スマートフォン。

コンビニ、ネット通販、SNS。

 

こんなに満たされた時代なのに

 

子どもの頃の方が

ずっと『生きる事が楽しかった』

気がするのは

 

 

自分が大人になったせいなのかと

思っていましたが

 

そうじゃない気がするのです。

 

 

 

住んでいた土地の

裏山にみんなでソリ持って登って

雪まみれになって滑ったり

 

おたまじゃくしの卵を

手で掴んで笑ったり

 

お父さんのスルメをくすねて

ザリガニ釣りをしたり。

 

 

ああ、あれは楽しかったなぁと

今になっても思う事。

 

 

今の子どもの大半は

そんな体験していないでしょうね。

 

 

現代の子どもたちは

 

大人になったとき、果たして

 

『あの頃やったポケモンは

本当に楽しかったなぁ』

 

なんて、懐古の念を

抱くのでしょうか?

 

 

 

もう少しでお正月ですね。

 

お店が全て閉まってしまって

いつもは賑やかな街が

しぃんと静かになって

 

 

子ども同士ですごろくしたり

大人も子どもと一緒になって

かるたをしたりするあの空気は

現代にはなくて

 

コンビニは開いてるし

 

どこに行っても

人がごった返してるし

 

ネットに繋げば近くにいない

いろんな人とも対話出来て

 

 

便利なんです

 

 

便利なんですけど

 

 

昔の『不便』なお正月の方が

楽しかった気がするのは

何故だろう?

 

 

胆振東部地震の際

電気が全て停まってしまった時

 

 

私はなぜか

どこか、ホッとしたのです。

 

テレビも点かない

ネットも繋がらない

あの時間に。

 

 

今が非常事態だと

子どもに悟られたら

子どもはきっとパニックになって

延々泣き続けるだろう。

 

 

この停電が

いつまで続くかわからないから

極力そうなってはいけない。

 

 

楽しい時間を作るために

 

私は、圧力鍋でお米を炊いて

沢山のおにぎりをにぎって

 

止まってしまった冷蔵庫の

食品でおかずを作って

 

子ども二人連れて

近くの公園に散歩に行きました。

 

 

 

公園の小さな山のてっぺんで

レジャーシートを敷いて

 

親子でお弁当を食べました。

 

そのおにぎりを

子どもたちと食べたことが

私にしてみたらすごく楽しくて

 

なんだかすごくおいしくて。

 

 

帰り道のスーパーでは

多くの品物が露店販売され

 

まだ離乳食中の下の子の為に

残り少ないバナナを取ろうと

他のお客さんと手が触れたとき

 

「赤ちゃん、バナナ食べるよね」と

譲ってくれる人。

 

 

「冷蔵庫が止まって

腐るだけだから」と

外で焼肉をしている人々と

 

「良かったら一緒に」と

通りすがり同士で火を囲む人々。

 

 

夜になって

 

全ての灯りが消えた世界で

 

興味本位で

外に出てみた我々家族。

 

 

一寸先は闇

 

その言葉の

本当の意味を知った瞬間。

 

 

自分が手を伸ばした

その指先すらも

見えない闇。

 

 

家族みんなで繋いだ

手を離すことが

心底恐ろしいと感じる闇。

 

 

ただ、その闇の中で見た

ありえないほどの満天の星空は

あまりに美しすぎた。

 

私は多分、一生あの空を

忘れられないと思います。

 

 

あの停電は

 

「自然と、他人と

共存する時間を思い出せ」

 

と、自然が私たちに

与えた時間だったような気がして

なりません。

 

 

残り少ない食べ物を

子どもという、弱い存在の為に

譲ってくれる人の優しさ。

 

 

全然知らない他人と

火を囲む楽しさ。

 

 

人工的な光がない世界の

小さな星の光の心強さ。

 

 

あの、停電を体験した人達の中で

私と同じように感じた人が

一体どれだけいるのだろう。

 

 

今の人間は

自然から、他人から

離れすぎた。

 

 

『便利』に溺れすぎて

『自分の便利』だけが

気になるようになってしまって

 

 

お互いが

『自分の便利』を主張して

その結果お互いの首を絞める。

 

 

だからどこか息苦しいのだと。

 

 

だから、人は少しだけ『原始』に

戻ってもいいような

そんな気がしているのです。

 

 

一度手に入れた『便利』を

手放す事は難しいけど

 

必要のない便利も

絶対あるんですよね。

 

 

とりあえず

正月3が日は

みんなで休もうよ

 

人が休むこと

人が自然に生きる事を

お互いで受け入れようよ

 

そこから始めても

いいと思う。

 

 

ノロが怖いからと

あちこちの幼稚園で

餅つきが無くなるように

 

大人同士の責任問題のために

楽しい子どもの行事は

減っていく。

 

お腹壊してもお互い様

怪我してもお互い様

 

そんな寛容性が

無くなっているせい。

 

誰のせいだ

何が悪いんだ

 

そんな話ばかり。

 

責められる要素を削っていけば

大抵の楽しみは

無くなってしまう。

 

 

 

誰のせいだとか

誰が悪いとか

 

そんなこと、

どうだっていいよ。

 

子どもたちに

楽しい想い出を作る事の方が

ずっと大切。

 

お腹壊したら

温かくして水分とって

寝ましょう。

 

そう思える人が

もっと増えてくれたらいいな。

 

 

 

 

 

この主張をSNSや

ネット上でやっていることに

ちょっとした矛盾も感じますが(笑)

 

 

私自身、

「言葉にして話す」より

「文字にして記す」方が

気持ちをを紡ぐのがうまくいくので

ここは、文明に感謝なのです。

 

 

またしても

ダラダラ書きましたが

 

Bocco.の活動も

子どもが自然体でいられる

 

そういうことを

大切にしたいのです。

 

それが『人としての自然』で

 

子どもにとって

楽しい想い出になることだと

思っているから。